娘が大学受験を考えていたころ、授業を選択する者が少ないとの理由で彼女は倫理を勉強していた。私は倫理の授業など受けたことがなかったから何を勉強するのか知らなかった。ある日授業で教わったからと、トマス・モアのユートピアの話をしてくれた。ユートピアはないと云う話だった。なんだ、ないのか、身もふたもない。結局ユートピアは読まなかったけど、だったらユートピアはどこなんだろうかと云う考えが頭から離れなくなった。もしかして西遊記の天竺みたいに今いるところなのかなと、ある日思い、今ある場所をより良いところに変える方法を模索した。逃げてもより良い場所がないのなら、ここで腹を括って生きるしかないんだろう。そう思うと不思議と幸せだった。自分で運命をコントロールできるからだ。幸せかどうかはただの主観だから、周りの人たちが、あんたは不幸そのものだよと云っても、当の本人が幸せだと感じるならそれは紛れもない本物の幸せに違いない。だから、そう、私は私の主観の上ではいつも幸せだ。時々周囲から見たくないもの、聞かされたくないことが届いてきて心を乱される以外は、雨に濡れても、お気に入りの茶碗を割ってしまっても、少しも辛くない。嘘、茶碗は割れない方がいい。

今日も絵を描いている。月に二日ほどは描いてる場合ではない用事があって描かなけど、それ以外は毎日描いている。描かないと怖いのかもしれない。描いていても怖いけど。最も楽しいのはクロッキーに行ってる時。漫画家になる前からモデルを使って描きたいと思ってたし、モデルを見ながら描いているときはとても幸せだ。人間の姿形がたまらなく好きだから。そして、描いたものが誰かを落胆させたりしないと知ってるから。私はモデルしか見てなくて、モデルは私なんか気にしなくて、私はただの壁のシミになってモデルを描き続ける。盗難に遭ったマルセルが来たからと観に行った時、ロートレックで一番良かったのは素描群だった。描く者の悦びを感じ、性(さが)を感じた。私は緻密で死んだ線が好きじゃない。緻密で美しいとされる線は見られたがっている線に思える。心や魂とは違うものだ。素描は、君が好きでたまらない、の云い換えなんだろうって思う。もう出発してしまう汽車での、別れのキスに似てる。

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